Life-ism

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正しさ

私の父と母は、どちらも家庭に恵まれなかったため、自分たちの子供には、自分たちが望んでいた家庭というものを与えたいと思ったそうです。

そのため、私は、休日には必ずお弁当を持って家族でどこかに遊びに行ったり、長い休みには家族で海のそばの民宿に長く滞在して毎日暗くなるまで海で遊んだり、お正月には母が作ったおせち料理を食べ、父と広場で凧揚げをし、家族で百人一首や福笑いやトランプをして遊ぶ、という家庭で育ちました。

私が10歳のとき、父が営んでいた会社が倒産し、生活から豊かさや余裕がいっぺんになくなってしまいました。それでも、それまでに父と母が与えてくれた、楽しくてきらきらした思い出が、私の記憶にちゃんと残っていることは、とてもありがたく幸せなことだと思っています。

大人になり、親になった今でも、お正月といえば「母が作ったおせち、父と凧揚げ、家族で百人一首やトランプ」というイメージが私の中にあって、そのイメージ通りのお正月を過ごすことが「正しいお正月の過ごし方」という認識があるのです。

今日は、私が考える正しいお正月の過ごし方ができませんでした。そのことで、悲しみやいらだちを感じる瞬間があったのですが、なぜ、そのような負の感情がわいてしまうかというと、私の中に「正しいお正月の過ごし方ができれば幸せ、そうでなければ不幸せ」という刷り込みがあるせいなのです。

自分が考える正しさと、誰かが考える正しさが食い違うことがあります。そのとき、どちらが本当に正しいのかを決めるために正しさの対立が起きたり、どちらかが無理に正しさを押し通し、もう片方が不満を抱えたままそれに従ったりすることがあります。

最近、正しさは、扱いがとても難しいと感じるようになりました。どちらが正しいとか、こちらの方がより正しいとか、正しさをベースにする考えが、責める人と責められる人を作り出すようにも思えるのです。

何を正しいと感じるかは、環境や状況に応じて変わるものです。例えば、私がお正月を必ずハワイで過ごす家庭で育ったとしたら、ハワイに行くのが正しいお正月の過ごし方であり、そうでないお正月は正しくないので幸せではない、という判断をしてしまうことになります。そのような判断は、幸せの幅をとても狭めます。

正しさへのこだわりを無くすことができたら、今まで正しさをベースにふるい落としてきたさまざまな幸せが手に入るような気がします。

さっき、半身浴をしながら、そんなことをつらつらと考えていました。